「声に出し唱え、詠唱すべきもの」とされてきたイスラム教の聖典コーラン。 14世紀もの間、姿を変えることなくアラビア語で詠唱されるコーランの響は多くのイスラム教徒を導いてきました。アラビア書道で書かれ幾何学模様で装飾されたコーランは、モスクに次ぐイスラム美術の代表です。 しかしアラビア語の響そして文字は、現代アートの世界に受け継がれているのでしょうか?

イスラムと書道

コーランとはそもそもアラビア語で「詠唱すべきもの」と言う意味であることから、声に出して唱えるそして暗唱することが前提でした。開祖ムハンマドは神からの言葉を受け取ると、それを信徒たちに伝えていました。ムハンマド本人は文盲であったため信徒が口伝えや書記によって伝承していました。開祖ムハンマドの死とともに632年に完結しました。 現在、英国バーミンガム大学の書庫に保管されていたコーランが西暦568~645年書かれたとされ、これまで発見された中で世界最古であるとされています。 Birmingham Quran manuscript.jpg By Anonymoushttp://www.nytimes.com/2015/07/23/world/europe/quran-fragments-university-birmingham.html?_r=0, Public Domain, Link

イスラム教の聖典コーランやモスクなどでは肖像画や絵画を描くことが古くから禁じられています。その理由の一つは神(アッラー)やイスラム教の開祖ムハンマドの肖像画を描くことは偶像崇拝へと人々を導いてしまう恐れがあるからでした。 一方で、イスラム教徒は古くから聖典コーランやモスクを書道や幾何学模様で装飾してきました。 Koran Frontispiece (two sections)

こちらは16世紀ペルシャで書かれたと考えられているコーランです。 コーランに書かれていることを挿絵などで表現することが禁じられていたことから、当時の人々はより多くの信徒を惹きつけるためにコーランの装飾に工夫を施していました。 またアラビア書道の伝統を現代アートに受け継ぐアーティストは少なくありません。 彼らは何世紀もの間、多くの信徒を導いてきたアラビア語の力を見逃しません。ちなみに他の言語に訳されたコーランは「聖典」としては認められていません。

 アラビア書道とグラフィティ:カリグラフィティ

代表的なストリートアートの一つであるグラフィティにアラビア書道で挑戦するアーティストエル・シード(eL Seed)は、中東地域の人々にとって馴染み深いアラビア書道を通してコーランではなく、地域に根ざしたメッセージを壁に描きます。 彼は自身の手法をストリートアートであるグラフィティとカリグラフィ(書道)をミックスさせた、カリグラフィティと呼んでいます。

エジプトでのプロジェクト

40年以上前から「ゴミの街」として知られるマンシェット・ナセル。 ここにはエジプトでは少数派であるコプト教徒(キリスト教の一派)が暮らしています。 ここの住民を他の街の人々は「Zabaleen」(ゴミの人々)と呼び、住民は自分たちのことを「Zaraeeb」(豚のブリーダー)と呼んでいます。 国民の9割がイスラム教徒のエジプトでは、豚肉をあまり食べません。 しかし豚肉を食べることが問題ではないコプト教徒は、周辺のゴミをマンシェット・ナセルに集め、分別したのちに生ゴミを豚に食べさせ、豚肉を市場で売っています。 周辺地域のゴミ処理は彼らの活動に依存しており、2009年に30万トンの豚がインフルエンザが原因で殺処分された時には、周辺地域は処理されない生ゴミで溢れたと言われています。 マンシェット・ナセルの住民の多くは貧困と不衛生な状況に苦しんでいます。

Manshiyat naser-Garbage City, Cairo, Egypt2.jpg By Diego Delso, CC BY-SA 3.0, Link

貧しくないがしろにされた地区にアートとできれば明るい光を与え、この孤立した地域を美しくしたい

地域の誇りであるモカッタム山に位置し中東地域では最大級の広さを誇る洞窟教会、聖サイモン教会(ケーブ・カテドラル教会)からのみ見ることができる作品を作ることにしました。

St. Simon the Tanner's Hall.JPG By 英語版ウィキペディアAyoung0131さん, CC 表示 3.0, Link

エル・シードは、4世紀にエジプトのアレクサンドリア主教を務めた聖アタナシオスの言葉をマンシェット・ナセル全体にアラビア語で描きます。

陽の光をはっきりと捉えたくば まず己の眼を浄めよ

Zaraeeb.jpg By OuahidbOwn work, CC BY-SA 4.0, Link

約50の建物の壁面に描かれたカリグラフィティの全貌は、丘の上の教会からのみ見ることができます。 また、全貌を見たとしても、容易に読める文字ではありません。

しかし、コーランがどんな地域でもそしてどの時代においても、アラビア語で読まれることが求められ、預言者ムハンマドが天使を介してアラビア語で聞いたコーランの「言霊」を大切にしてきたように、意味がわからなくても、言葉の持つ力を感じさせるこの作品は、マンシェット・ナセルに暮らす人々の心を動かしました。

仕事に追われ10年間丘の上の教会に行かなかった、この作品の一部が描かれた建物に暮らす男性を教会へと導きました。

彼は作品の一部が描かれた自分の家を丘の上から誇らしげに眺めながら、

これは平和と統一のプロジェクトで人々をつないでくれるものだ

とエル・シードに告げました。

エル・シードは、コーランが長年そうであったように、アラビア文字の表面的な意味ではなく、アラビア語の言葉が長い歴史を経て培ってきた目に見えない力を、カリグラフィティを通して再び生き返らせているのかもしれません。

彼はエジプトでのプロジェクトをこう振り返りました。

アートで地域を美化することが目的ではありませんでした。本当の目的は、見方を変えて自分の知らない地域で生まれるつながりについて、対話を始めることだったのです。