これは2017年1月27日の大統領令により米国への入国が拒否された国出身の芸術家による作品です。歓迎と自由という究極の価値が、この美術館と米国にとって不可欠であることをはっきりさせるために展示した所蔵作品です
日本でも話題になってザハ・ハディド
世界有数の建築家として知られるザハ・ハディド。日本でも2020東京オリンピックのメイン会場となる新国立競技場の初期建築家として知られています。日本では彼女の斬新なデザイン案やその建築費用などに注目が集まり、彼女自身について語られることはあまりありませんでした。
イラク生まれのザハ・ハディドの父親はイギリスの労働党を参考に設立された「国家民主党」の指導者、母親はアーティストでした。比較的裕福で、リベラルな家庭で育ったハディドは、保守的な思想を持つサッダム・ホセインの権力が強まる70年代にイラクを離れます。
イギリスに移住しイラク系イギリス人建築家として世界中で名を馳せた後、2012年に初めて故郷であるイラクのテロで破壊された中央銀行と国会議事堂の建築を依頼されます。しかし残念ながら未だにイラク情勢の混乱により着工が進められていません。
ザハ・ハディドは完成を待つことなく2016年に心臓発作のため亡くなりました。
今回MoMAで展示された作品は、彼女の初期の建築ドローイングです。
1983年に香港のヴィクトリア・ピーク山頂に立てる高級クラブの建築デザイン案を募集した国際コンペにハディドはこのドローイングを提出しました。当時まだ無名だった彼女は、審査員だった篠崎新羅の目に留まり最優秀賞を獲得しました。
事業者の倒産により建築は実現されず、現在は何点かのドローイングのみが残っています。
イランの代表的な彫刻家パルヴィーズ・タナーヴォリ 「預言者」(1964)
イランの民族研究家、民族美術コレクター、1960年代に発足したイランの前衛芸術家集団「サッガーハーネ」のメンバーであり、イラン国内にとどまらずテート・モダン(ロンドン)をはじめ国外でも個展を開催している彫刻家パルヴィーズ・タナーヴォリ。 2008年には「壁(おー!ペルセポリス)」(1975)が約3億円で落札されています。
アーティストとして、研究者として、そしてイラン・モダンアートのパイオニアとしてイランのモダンアート史では欠かせない彼は、現在祖国イランを離れカナダで暮らす移民の一人でもあります。
イラン・モダンアートのパイオニア、チャールズ・ホセイン・ゼンデルーディー
チャールズ・ホセイン・ゼンデルーディーは、タナーヴォリと共に1960年代にイランの前衛芸術家集団「サッガーハーネ」のメンバーでした。
イランは1979年にイスラム革命が起きるまで、パフラヴィー朝がイランを統治していました。現在のイスラム政権とは違い、パフラヴィー朝時代の政府はとても親米であり欧米のライフスタイルを国民に求めていました。
社会が西洋化へと進む中イランの伝統に今一度目を向け、そして欧米の模倣だけではないイランを構築することの重要性を呼びかける活動家、政治家、そしてアーティストが出現しました。
1960年、このようなイラン国内の葛藤と挑戦に応えるように数名のアーティストによる前衛集団「サッガーハーネ」が誕生しました。
それまで、イランで主流だった”モダンアート”と呼ばれるアートのほとんどが西洋絵画や彫刻の模倣でした。またミニアチュールや書道などの伝統芸術や伝統工芸と呼ばれるものは当然のことながらモダンアートとは全く違う業界で語られていました。
「サッガーハーネ」のメンバーは、当時の多くの活動家や思想家が呼びかけていたように、イランの伝統と西洋の融合を試みました。彼らは西洋絵画や彫刻の技法を用いて、イラン人が忘れかけていたイランを表現しようとしました。
今回MoMAで展示されたチャールズ・ホセイン・ゼンデルーディー作品「K+L+32+H+4」は、まだ幼いゼンデルーディーが兄弟と共に父親と並んでイスラム教式のお祈りをしている姿が描かれています。さらに作品の全体には、7世紀にイランをイスラム教勢力が支配するまでにあったイラン独自の文明に由来するシンボルなどが散りばめられています。
アフリカン・モダンアートのパイオニアであり政治家Ibrahim el-Salahi
1930年スーダン生まれのIbrahim el-Salahiは、アラビア書道から芸術の世界へ足を踏み入れます。
私は長年スーダンの土地に根付いてる色を使ってきました。
バーントシェンナ、黄土色、白、そして黒。
子供を育てるようにゆっくりと丁寧に作品を仕上げるイブラヒム。
彼はスーダン国内の大学で絵画を学んだのち、ロンドンへと旅たちます。
1972年に再びスーダンに帰国すると、スーダンの文化・通信省の文化局長に就任しました。
しかし1975年に反体制派の活動に参加しているとの疑いで半年間投獄されました。
この事件から10年後、彼は自力で国外に脱出することに成功し、カタールで数年滞在したのちにオックスフォード(イギリス)に落ち着きます。
スーダンの地を離れた今でも、スーダンの自然そして人々への想いを作品に込めています。
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